息子がペンテコステを出た訳も書いておこうと思う。
息子たちははじめ私と一緒にペンテコステ教会に通い、ペンテコステ教会の宗教の時間で単位を取っていた。
特に長男はペンテコステの礼拝スタイルが好きなようだった。
長男がペンテコステ教会を嫌った訳は、彼にとってはとても深刻な理由からだ。
2006年の東部教区主催のキャンプに参加したときの事、その当時長男は、ホルモンバランスの関係もあってADHDの症状があまりよくなかった。
ADHDである旨を話し、許可を頂いた上で参加した2度目のキャンプだったのだが、彼にとっては運悪く、グルーブ担当の女性信徒はADHDに関しては全く知識のない方だった。
女性信徒の息子が同じグルーブにいたのも、彼にとっては運が悪かった
息子の行動を理解できない女性信徒は、かなりヒステリックに対応したらしい。
(*無理もないことだと思う-この方はADHDに対して全く知識がないのだから)
そして同じグルーブにいた女性信徒の息子とその仲間もそれに倣い苛める。その結果息子はますます問題行動を起こす、という最悪の事態が起きてしまった。
彼はグルーブ内で完全に孤立し、問題児のレッテルを貼られてしまった。
その上、一番大切な友達というディスカッションの中で、息子が親友のA君(同級生・カトリック)をあげた所、グループの仲間が「カトリック教徒はサタンだ!!」「 お前はサタンの友達だ!!」と言いだしたらしい。
A君が大好きで大切な友達であった息子は、大変なショックで受けてしまった。
そのキャンプ以来。ペンテコステ信徒アレルギーになってしまった息子だったが、神様はなんとも憐れみ深い方だ!、その年から宗教の時間の担当者が変わり、素晴らしい神父さまがその任につかれたのだ。
最初に、「一緒に(カトリックの)宗教の時間に出ようよ!」と誘ったのはA君、暖かく迎えて下さったのはR神父さまだった。
元々抹香くさい所があった彼は、R神父さまに出会ったことで本当に救われた。
その後中学に進学してからも、カテキストさんがとても気に入ったらしく、嬉しそうに宗教の授業を受けていた。そして、2年生の冬、カテキスタさんに薦められたこともあって「みなと一緒に堅信礼をうけたい」と言い出した。(ポーランドでは中学3年生が堅信礼を受ける)
息子たちはカトリックの幼児洗礼を受けてはいるが、初聖体はまだだった。まずは初聖体への準備会が始まり、2009年10月10日に初聖体、そして長男は2010年3月に堅信礼を受けた。
私が息子にした事は、おそらく所属教会では非難の的だと思う。
ポーランドにおいては母親の親権の方が強く、従って子供たちの宗教の選択権も母親に第一決定権があるからだ。
この話を尊敬するE牧師(通称・師匠)には今までの事情も加えて話した。師匠は「(カトリックであれ、プロテスタントであれ) 神様にとどまっていることが一番大切だ」と答え承認してくれた。(心の中では残念がったのかもしれないが・・・・)
そんな訳で我が家でのプロテスタント教徒は私だけになったのである。
私は全く後悔していない。むしろ、プロテスタント教会や信徒に躓くことがあっても、神様を捨て去る様なことにならなかった事を感謝している。
2009年10月初聖体の後でR神父さまと
以下は暇な方だけ読んでください(笑)
**追記:東部教区に物申す**
息子がキャンプ場で問題行動を起こした時点で、親である私たちになぜ連絡がなかったのか?
連絡をくれたなら、私たちはただちにキャンプ場から息子を連れ帰った筈だ。
夫はキャンプ場に着いた際、明確に「何か問題があれば連絡を下さい」と責任者に言った筈だ。キャンプ全体の為にも、息子の為にもそれが一番良かった筈だ。
迎えに行った際も夫は「問題はありませんでしたか?」と聞いたが、その際も責任者は何も答えなかった。
私が主催者側の言い分を始めて聞いたのは、実に1年近くたってからだ。翌年次男をキャンプに送ろうとした際初めてこの話を聞いた。なぜ1年近くも隠していたのか。
迷惑をかけた方々に親として謝る方もできなかった。この点も非常に残念である。
2006年のあの時点で、ADHD児を受け入れる事は事実上無理だったと思う。対応できるスタッフがいないのだから。信仰で乗り切れる問題ではないのだ。
しかし、「信仰の継承」の錦の御旗の元、受け入れる事のできない児童を受け入れてしまった。
確かにあの当時、ADHDに関しての知識は今以上に足りないのが現状だった。
しかし、公立学校はこういった行動障害を持つ子供の対応の為に、校長先生を筆頭に一生懸命学んでいた事も書いておきたい。見違える程に改善されていく有様は、感動的ですらあった。
教会学校という場も、いろいろな子供を受け入れる準備が必要だと思うが、実際は何もなされていなかった。いわゆる「ADHDに重荷を持つ」人が全国に何人かしても、ただそれだげだった。
そう言う方を招いて講習会を行うとか、そういう事は全くなかったのだ。
厳しい言い方をするが、所属教派の方々は「信仰があれば」乗り切れるとタカを括り、学ぶ努力を怠っているとも言えるのではないか。